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いわゆる「国語力」について

目次

序章 「東大からのメッセージ」考察

第1章 国語力は「テクニック」ではない

第2章 国語力に関するよくある誤解

第3章 日々を「効率よく積み重ねる」には

終章 家庭教師の白井としての取り組み

序章 「東大からのメッセージ」考察

ご存知の方も多いかもしれませんが、東大は高校生に向けて各教科に関して「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」と題してメッセージを発表しています。

 

参照:「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」東京大学HP

 

この中で国語に関する特に重要な部分を引用すると、

 

「本学の教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちません」

「真の教養を涵養するには古典が不可欠である」

「自己の体験総体を媒介に考えることを求めている」

「基本的な知識の習得は要求するものの,それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく,むしろ,それ以上に,自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します」

 

などです。

非常に正論であり、古典の重要性についても言いたいことは結構あるのですが、以下この考察では現代文に絞って私の考えを述べようと思います。

第1章 国語力は「テクニック」ではない

まず申し上げたいのは「傍線部の前後を読め」とか「接続詞に注意しなさい」というようなものは、国語力とは別の「読解テクニック」だということです。

 

よく国語の問題分に線を引いたり記号を付けたり、といったことをやる割にはなぜか「読めていない」生徒様などがいらっしゃいます。

 

確かにそういった方法が有効であることは否定しません。

しかし、よく考えてみてください。

 

「書いてあること」が理解できていないのに、傍線部の前後や接続詞を見たり、いたずらに線を引いてみたりして、理解できるようになるのでしょうか。

 

私は、そういったテクニックを駆使したところで「読めないものは読めるはずがない」と思っています。

 

ですから、安易な方法に頼って仮初の「国語力」を得ようというのは、結果的に逆効果につながります。

 

 

国語力とは「母国語での思考力」であり、一朝一夕には身に付きません。

言ってしまえば、その人の世界に対するものの見方・態度や、その「解像度」(考え方の鋭さ)に由来するのです。

 

 

このことを知ってか知らずか、国語指導が教育業界では敬遠されていますが、私はそれでは意味がないと思っています。

第2章 国語力に関するよくある誤解

国語の問題を解く時には「主観を排して客観的に読め」とか、「問題文の構成をパターンに当てはめて解け」とか、言われている側にとっては「無理難題」に思える忠告がなされることがあります。

 

 

しかし、私の考えでは(適切な)主観なしに小説や詩、あるいはエッセイや小論を読むことは不可能に等しく、また自分が全く共感できないテーマに関して「内容に応じて」パターン分けすることなど、できません。

※これは答えを「記述する」ときにも言えます。自分が読めていること以上の内容を書くなどできるはずがありません。まず読む力を涵養して、それを前提に書く力を指導するとよく伸びてくれます。

 

「主観」という言葉は難しい概念ですが、ここでは「共感力」や「自己の体験を媒介して考える力」ぐらいに思っておいてください。

 

確かに「著者の意見」と「自分の意見」とを履き違えたりして、自分勝手に読むことは許されず、そこに一定の節度が存在することは事実です。

 

 

しかしその「節度」は、いわば「他人の立場を自分の立場とは別に尊重できる能力」、ありていにいえば「一般常識」があるかどうかということであり、であればなおさら社会生活や大学での学修に必要な能力であるといえます。

 

難しいことを言っているようですが、仮に難しくても、この「物事を自分の感覚で以て、相手を尊重しながら考察する」という力こそ、真の教養であるといえるのではないでしょうか。

第3章 日々を「効率よく積み重ねる」には

一方で、前章までのことを生徒様に「自分の力で身に着けてこい」というのは、いささか乱暴に過ぎるような気もします。

 

実際、生徒様の「ありのままの学び」を過度に重視するあまり、放任主義(しつけの不足)が行き過ぎて、自分を見失っている例が多いのではないでしょうか。

 

 

自分が日々体験した事柄はたくさんあるにしても、それを自覚するためには多くの場合他人から指摘されることが必要です。

また、なんとなく日々を過ごしていると、頭が休眠状態となり、いざという時にうまく働かないということもあります。

 

ですから日ごろから「頭を使う」「物事に対して自分なりに考えてみる」という、自覚的な取り組みが必要です。

 

もちろん「そんなことを言われても」という方は多いでしょう。

ですから、終章では私共が行っている取り組みについてご紹介して、むすびに代えたいと思います。

終章 家庭教師の白井としての取り組み

国語の授業の進め方ほど、教師の個性が出るものはありません。

 

中には答えや読み方について詳細に説明する、という「お堅い授業」をする先生もいらっしゃいますし、一方で積極的に発言や「自分の意見」を求めるという場合もあります。

 

ここで重要なことは2点あることは、ここまでお読みの方ならば推測が付くでしょう。

 

 

1つは「教師が出しゃばり過ぎないこと」です。

生徒様はまだ言ってしまえば未熟です。

そんな人に、完成された意見をバンバン言ってしまうと委縮して、自分の考えを育てる機会を奪ってしまいます。

 

ですから、教師は問いを投げかけ、ヒントを提供するぐらいの「名脇役」に徹するということが大切になります。

※「動画」などをご参照ください。

 

 

もう1つは「自分の意見」と「著者の意見(登場人物の心情)」とをしっかり区別させることです。

簡単に言えば、自分と他人の間に一定の境界線を引いて、区別しながら考える視点を身に着けさせるということです。

 

「考えるためのマナー」というか、人によっては非常に当たり前すぎて教えるに値しないという方もいらっしゃるかもしれませんが、一方でこういう教え方が現代(あるいはそれ以前も含めて)の教育で不足しているのではないかとみています。

 

 

ですから、勉強するためのマナーや、文章の読み方・書き方の「しつけ」ということに力を入れなければならない、というのが私共の基本的な思想です。

 

 

〇具体化案~注釈をつけながらの精読~

問題文に線を引いたり、マーカーを付けたりといった手法はありふれています。

しかし、それで結果が出る場合とそうでない場合があるのは「素の文章がちゃんと理解できているかどうか」ということです。

 

文章理解ができないで、文章のブロック分けなりなんりといったテクニックが使えるわけはなく、持て余すのが関の山です。

 

ということですので、私共では「下線を引いたりマーカーを付けたところは、必ずその注釈(その部分の言いかえや具体的な意味内容を書き足す)をつけるというやり方を行っております。

 

一文一文についてこれを行うので、時間と手間はかかります。

難しい長い文章では授業1回では終わらないこともあるくらいです。

しかし、こういった細かいことの積み重ねが総合的な読解につながると考えており、またしっかり読めることが、しっかりかけることの前提でもありますので、国語指導では徹底しているところです。

 

Cf.数学や算数、英語でもわかりづらい場合には小分けにして教えるということが行われておりますが、これを国語的に変形しただけかもしれません。ただ、そうであるならばなおさらこの地道な方法が「近道」に思えてならないのです。